安城建築は住宅の価値を追求する以上工事を他人任せにするようなことは致しません。
ベテランの現場監督を中心に自分の仕事に厳しい職人とのチームワークにより、お客さまの大切なマイホームを責任を持ってお造りしています。家づくりに対する情熱とこだわりは決して変わる事はありません。
現場監督の小鹿です。
毎朝ウォーキングしていますが、体重が減りません。
〔一級施工管理技師〕
〔一級建築士〕
大工の岡山です。
安城建築で大工になって48年になります。体が続く限り大工として頑張ります。
大工の青山です。
安城建築に入ったのが20歳、あれから47年大工一筋で頑張ってきました。まだまだ若いもんには負けません。
大工の木全です。
子供の頃から大工の父親の背中を見て育ちました。私にとって大工は天職です。
営業の澤です。
自分が惚れ込んだ会社と住宅。毎日楽しく仕事をさせて頂いています。
〔宅地建物取引主任者〕
二級建築士の杉浦です。
マイホーム計画をはじめています。
家づくりアドバイザー 澤 昇成(宅地建物取引主任者)
こんにちは。ハウスアドバイザーの澤 昇成(のりしげ)と申します。平成12年に安城建築に入社しましたが、私はちょっと変わった社員です。変わっているといっても、人様にご迷惑を掛けるようなものではありませんよ。実は私、元々は安城建築のお客だったんです。
どうしてお客が社員になってしまったかというと、ごくごく普通のサラリーマンとして働いていた私は6年前にマイホームを建てました。その時、私の家を建ててくれたのが安城建築でした。はじめは、小さな工務店だし聞いたこともない会社だったので「大丈夫かなぁ?」と不安もありましたが、モデルハウスもすばらしいし、社長、専務の建築という仕事に対する情熱、誠実さにも共感するとこるがいっぱいあって(今は社員になってしまったので言いにくいんですが、本気でそう思っていたんです)、「まあ、これで後悔することになったら見る目がなかった自分が悪いんだ」と思って、一生の買い物を安城建築にお願いしました。
でも、出来上がった家は「やっぱりオレの目に狂いはなかった。どうだ!」と実感出来る期待以上のものでした。そして私は、「こんなにいい家が、普通のサラリーマンの私にも建てられるんだったら、これから家を建てようとしている一人でも多くの人に伝えてあげたい!」と考えたのがきっかけとなり、20年近く勤めた前の会社を辞めて安城建築に入ってしまったという訳なんです。
この仕事に就いたきっかけからも、私の使命は「安城建築が造る家での暮らしの楽しさ、快適さを伝えること」です。私自身がお客として安城建築を選び、実際に建てたその家での暮らしをお伝えすることが出来ます。そして、私がお伝えしたことを通して、安城建築という会社に共感してくださった方を応援して行っています。ですから、私どもがお造りする家が自分の理想のものとは違っていると思う方、家づくりに対する考えに共感できないという方には、一切おすすめすることはありません。家は一生の買い物です。それは私自身が家づくりを体験したことで、痛いほど分かっています。気に入らないものを無理にお願いして、何千万円もの大金をいただくなんてことは、私には出来ません。そんなことをしたら、ずっと後ろめたい気持ちを持って人生を送ることになってしまいます。
家を建てるということは、本当に大変なんです。思い悩むことも、夜も眠られないくらい不安な気持ちになることもあるんです。意見がまとまらず、夫婦ケンカも起こります。住宅ローンを借りれば、返し終えるまで人生にリスクを負うんです。ですから、お金のことも十分すぎるくらい検討しないといけません。建てる家も依頼する業者も、とことん吟味しないといけません。
もし、あなた様の周りに、売ること、または建てることしか考えず家づくりを勧める人がいたら相手にしないことです。家を建てる目的は、単に家というものを手に入れるだけではなく、そこに暮らす家族が幸せになることなのです。この先、あなた様と、ご縁が続くかどうかは分かりません。しかし、ここでほんの少しでもご縁があった以上は、あなたに家づくりで成功していただきたいと思います。
ここまでお読みになって「うん、なんとか信用出来そうだし、一度見学する価値はありそうだ。」と思った方、あなた様の希望する家かどうかは分かりませんが、モデルハウスをほん少し見るだけでも、あなた様の家づくりの参考になると思います。私が初めて見た際に「うおぉぉ~スゴイ!」と感動してしまったモデルハウスを一度ご覧になってみて下さい。
あなた様、そしてご家族の皆様が笑顔でマイホームの完成を迎えることが出来ますように!
ハウスアドバイザー 澤 昇成
職人さんありがとう
一つの家は、多くの職人さんの手によって造られます。その職人さんたちが書いた作文を、一冊の文集にまとめました。読んだ方々から「感動しました」、「涙が出てきました」という共感の声が届きました。
文集には、38人が書いた作文が載っています。
これから、文集「職人さんありがとう」の一部をご紹介します。
はじめに
昔の大工は、思いの深い家には、天井裏や縁の下にカンナやノコギリを、わざと残したと聞きました。それは、自分が精魂込めて造り上げたという強い思いを、伝えるためです。
そうすることで、自分たちの造った家に魂を宿らせたのではないかと思います。
完成した家には、そこに携わった職人たちの汗、そして熱い思いが込められています。
お客さまから「ありがとうございます。安城建築さんにお願いして、本当によかったです。」と感謝の言葉をいただいた時は、「本当に、この仕事をしていてよかった」と思います。
しかし、私は、この「ありがとう」という言葉をもらい、本当は、毎日現場で一生懸命働いている職人たちに、その言葉が届かないといけないのではと思いました。
ただ御施主さんによい屋根が出来たと喜んでいただいた時は私の苦労が一度にふっとぶ感じがします。
35度を越す真夏の炎天下での作業は本当に過酷です。
身を切るような寒風の中での作業は本当に辛いです。
細い足場を行き来する作業はとても危険です。
そこには、基礎屋、大工、屋根屋、水道屋、電気屋、塗装屋、左官屋、他にも多くの職人たちの体を張って頑張る姿があります。職人としての魂があります。
普段、なかなか、お客さまに届きにくい職人たちの素顔、仕事に対する情熱、そして、それぞれの使命を、なんとかお客さまに伝えたいと考えたことがきっかけとなって、この冊子が出来上がりました。
私は、原稿を読んでいるうちに、目頭が熱くなりました。
こんな人生、そして試練があったことを知りませんでした。
これほど、家族、とくに奥さんの支えがあったことは知りませんでした。
こんなにも、私が感動してしまうとは思いませんでした。
これからお読みいただくのは、職人たちの人生が詰め込まれた感動の手紙です。
設備 西川 正亜
四国の愛媛県から何故か安城へ…。激動の半生
私は闘牛と真珠で有名な四国の愛媛県宇和島市で生まれ、男3兄弟の真ん中として、海と山に囲まれた地でワンパクに育ちました。
父親が塾を開いていたこともあり、毎日勉強勉強と言われたことを覚えています。その成果自分で言うのも何ですが勉強もよくでき、また、運動面でも学校で1,2を争う程度で学級委員をよくやりました。しかしそんな父も私が小学4年の時に体調を崩し入院。2年後に亡くなりました。
家計が元々苦しく、父の死後、家賃の安いアパートに移ること2回、転校を余儀なくされ、また、身の回りの物は自分で稼がなくてはならず、親戚の新聞配達、テキ屋の手伝いをしました。給食費が払えず子供ながらにいやな思いもしました。
そんなことがあってか、学校によく遅刻し、家には転校することで増えた仲間が集まり、好きなバイクを乗り回し、あげくには警察が家の回りにウロウロする始末。16歳でバイクの免許が取れ、4月産まれの私は回りの誰よりも早く公にバイクに乗れ嬉しかった物です。今思えば「悪」だったと思います。
高校受験は興味がなかった物の、先生から「絶対おまえは落ちる」と言われ、その反発心から地元高校を受け、何故か合格。しかし、高校へ行ってなんになると思い、地元で真珠屋、テキ屋、ハマチ養殖、トラックの助手を1年やった後、知人に手に職をつけないかと誘われ、友人と長距離トラックに揺らされていざ名古屋へ、と思いきや、田んぼの広がるここ安城市へ。そして水道設備業に携わることとなりました。
まだまだ学ばなければならないことばかり、初心を忘れず、これからも自分が成長していけるよう頑張らないといけないと思っています。
妻より
今思えば親に甘えて育ってきた私とは違い、若い頃から親元を離れ、一生懸命頑張っている主人に魅力を感じお付き合いが始まったような気がします。家に帰れば肉体労働にも関わらず娘の相手をよくしてくれて、私のつまらない今日の出来事を聞いてくれいつも感謝しています。
屋根 川添 実
母一人、子一人の環境で育ち苦労を乗り越えた人生
私は鹿児島県内元浦というロケットで有名な町で生まれ育ちました。
私の育った町は小さな港町です。
山の方にはロケット基地がありロケットの打ち上げ時期になると大変賑やかな町に変わります。
私の家は、母一人、子供一人の家庭で父親は私の小さい頃病死し、母は私を育てるため女手一つで大変な苦労をしたと思います。
私は小さな頃父親がいないと言うことで小学校の頃は今で言う”いじめられっ子”でしたが、中学校に入ると反動でワルに代わり体は小さいがいじめる方になりました。
中学を卒業し高校へ行きたかったが母にそれは言えませんでした。そして集団就職で名古屋に来ました。
当時名古屋で旋盤工として働いていましたが流れ作業の毎日で自分の性格に向かないと思い義理の兄を頼り三河へ来ました。三河では屋根屋のメーカーへ就職しそこで屋根や職人の親方と知り合いその親方の元で働く様になりました。約6年間修行しその間いろいろな瓦の施工を経験しました。和型の土葺、S型瓦、平板瓦、カラーベスト等親方にも私の施工がほめられる様になったとき独立しました。義理の兄が働いていた今の大正建材さんを紹介してもらい現在に至っています。
この仕事は自分の働きに応じ給料が決まる大変な仕事です。なまければ明日のご飯も食べられない。又しっかり仕事すればサラリーマン時代の何倍もの収入となります。自分の体力と才能の職場です。
幸い体力も自信がありただ才能は大正建材の社長さんがどう思っているかはわかりません。
ただ夏の暑い日に屋根に上がると目がくらくらするときも多く有ります。又汗ですべりそうになる時もありますがお客様に喜んでいただける屋根を今後も施工していきたいと思います。
空調 郡山 秀昭
チャレンジするために転職やがて天職に…
私は空調関係の会社に勤務しております。その会社での業務は主に戸建て住宅の仕事に携わっています。
引っ越しを繰り返し、家という物にあまり縁がないように思えた私が、現在家に関する仕事を行っていることに、どんな意味があるのだろうか、少し自分を振り返ってみたいと思います。私の幼い頃の記憶には、けんかする両親、物を壊して暴れる父の姿が残っています。
私の父は金型機械の技術を持った人間でしたが、人付き合いが下手でよく転職を繰り返していました。その上、一攫千金のギャンブルに狂い借金も多く、そのすべての負担が母に重くのしかかっていました。母は幼い私と弟を抱えて実家に帰ろうと何度か考えたそうです。しかし、その度に思い止まっては"どんな父親でも父親は父親は必要なのだから"と必死に耐えて私達のために頑張ってくれました。
そんな生活の繰り返しの中、父が奮起してくれるならと、母方の祖母が援助をしてくれて新築の家を購入したことがありました。私が小学校二年のときでした。母和末っ子で病気がちの体でしたのでそれを心配してのことでした。しかし、相変わらず働かない父のために、母は、ゴルフキャディーをして生活を支えてくれました。3年間頑張りましたが返済が苦しく結局手放すことになりました。引っ越しも夜逃げ同然でした。非常に悔しい記憶として残っています。このように引っ越しを繰り返していた影響か、内気な性格に輪を掛け、よくいじめられていました。また、中学生の時には所属していた町内剣道クラブの練習中に骨折をし、そのことを病院が町内に広めたため、私が言いふらしたとの注意を受け、大人の言葉に幼心を深く傷つけられ登校拒否になってしまいました。
この頃また父が転職をし、それにあわせて転校となり環境が変化したおかげで別の学校での再スタートが出来、何とか中学校を卒業することはできました。そんな時学校の担任から高卒の資格もとれ手当ももらえる職業内訓練校の話を聞き、某自動車会社の学校に入学しました。この学校は男子校で全寮制でしたので、ここから親元を離れた生活が始まりました。ここに集まってくる人は、家庭に何らかの問題を抱えて家を離れた人が多くいました。そんな人々との集団寮生活の中、上下関係も厳しく多くの仲間は、問題を起こして去っていきましたが、私は卒業することが出来、登校拒否だった自分も一つのけじめを付けた気がしました。この事は、今の自分にとって大きな財産となっています。
ただ自分がこうなりたい、こうしたいという意志をあまり持たずに自動的に自動車会社の社員となりましたので、"自分はこのままで良いのか。"という自問と"ここで頑張るんだ"という気持ちを繰り返す日々でした。
そんな日々を続け七年が経った頃転勤の話がありました。そのころ家族の再出発のため、両親と県営住宅で同居を始めていましたので、転勤を断り"何かにチャレンジしたい。"との思いから退職を決意しました。そこで現在の会社と出合いました。
車に関係ない仕事を条件に、空調機の会社とのことで決めましたが、就職してみると、工場空調のメンテナンス担当となり、昔自分のいた工場に行くこともありとても複雑な思いをしたこともありました。
ただ、自分の意志で就職したことによって、広く世間を知るきっかけにすることが出来たと感じており、後悔はしていません。
こんな時所属していた豊田支店と、隣の名古屋支社の統合により、営業に所属となり住宅に関わる仕事に就くこととなりました。いろいろなことを経験してきましたが、それらすべてが生きてくるように感じます。空調換気という仕事で、いろんなお客様と出会い、夢、希望をお聞きし、家を造る作業にたずさわる中で、作業に関わる多くの人と本当にいい物を作っていきたいと思いで日々取り組んでおります。私の過去の経験から、家という"物"だけではなく、家族に対しての憧れを強く持っています。その意味で関わった人々の笑顔が私の宝となっている日々です。"快適だよ""入れて良かった"等言われたときの笑顔は何にも変えがたいものです。これからも多くの笑顔と出会えるような社会との関わりを持っていきたいと感じています。
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